エッセイ集

2020年東京オリンピックが決まった。喜ばしいことだ。招致に努力された皆さんに心から敬意を表したい。
1964年の東京オリンピックから数えて56年ぶり。当時のことが思い出される。
折しも9月15日敬老の日に総務省から発表された人口推計によれば、65歳以上の人口が全人口の25%を初めて超えた。64年当時の青春時代を懐かしく思い出す人も多いだろう。

 

 

1964年の「東京オリンピック」は、日本の戦後の経済発展において、大変大きな意義があったと思う。東海道新幹線や、東名、名神高速道路、首都高や地下鉄、競技場やホテル等、社会インフラも大きく整い、カラーテレビは一般家庭に爆発的に普及した。戦後から脱却し1960年代、70年代の2桁成長を続ける中にあって、オリンピックが日本経済を大きくリードし、国民はその恩恵を実感した時だったのだと思う。東京オリンピックで日本の平均株価は約3倍にもなった。

 

 

夢よもう一度。国民の期待も大きい。
しかし、これから先の7年間、日本経済にとっては正念場だ。高齢化は進み、人口は減少しつつある。2040年頃には1億人を下回る水準になるといわれている。
財政赤字は極端なまでに大きく、累積の政府債務はGDPの2倍、1000兆円を超えている。
オリンピックを1964年の記憶のように経済の起爆剤にしたい気持ちは強いが、同時に当時のように公共投資を行いそれによって経済の活性化を図るといったことは期待しにくい。逆に財政赤字を拡大する危険が大きく、国債市場を不安定化させる懸念も大きいだろう。
諸外国からの選手や観光客を迎えるのに、豪華な競技場や過大な公共施設などではなく、市場に優しい「お・も・て・な・し」の心をもって日本の財政赤字問題を大きく改善させることの方が、世界に対する貢献ははるかに大きいと考えている。

和歌を現代語に、また外国語に翻訳することは、難しいことではありますが基本的には可能ではないかと私は考えています。なぜなら、和歌は文字による 言葉を伝えるだけではなくて、人間の琴線に触れる本質的な内面の心理や、感激する心の情感を伝えているように思えるからです。このような熱い情感は、日本 語であれ外国語であれ現代語であれ、必ずや共通するものがあって、時空や国境を飛び越え、人間に等しく共感を与えるものだと思うのです。

 

私は以前、アメリカの子供達が書いたという英語の俳句を読んだことがあります。5-7-5の韻を踏むという慣れない詠み方にあっても、アメリカの子供達らしい雄大な自然に溶け込んだ素晴らしい俳句が多く、日本人の目から見ても心を打たれる作品が数多くあったことを思い出します。アメリカにおいても俳句は結構流行っているという話をその時聞きました。

 

例として和歌を一つ英語に訳すと、どういう感じになるでしょうか?万葉集の詠み人知らずの歌で、次のようなものがあります。「妹背川(いもせがわ)手に手を取りて 渡りなむ たとへ悪しき 深みは無くとも」妹背は夫婦のことです。「これから二人で 夫婦の川を 手に手を取って渡って行こう たとえ 意地悪な深みが無かったとしても」という若い二人の旅立ちの歌です。

 

私はこれを次のように訳してみました。
“Now let’s start crossing over the river of husband and wife,with taking hands each other!Even if there is no evil depth in the river.”

 

確かに妹背という意味はうまく訳せないかもしれません。31文字に凝縮された語感そのものを訳すことはむずかしいかもしれません。でも、愛し合う二 人がしっかりと手を繋ぎ、二人の将来に意地悪な深みが「無かったとしても」、繋ぎあったお互いの手のぬくもりを感じながら、お互いに支えあって生涯を送っ ていこうという、強くて優しい思いは十分に伝わるのではないでしょうか。

 

一千数百年も前の名前もわからない誰かが、その最愛の新妻に対してこういう心を抱き、それを表した言葉が、万葉の言葉であっても、また外国の言葉であったとしても、その思いは「時空を超えて」私の心までも暖かいものにしてくれるのです。
私はこの歌がとても好きです。

室町時代末期から江戸時代に入るまでの半世紀余り、日本国内は群雄割拠、下剋上が繰り返されるいわゆる「戦国時代」になる。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康をはじめとする戦国大名が戦いを繰り広げ、天下統一を争うわけであるが、この歴史をこれらの家を守る姫君達の立場を通じて見てみることにしたい。ここで取り上げる姫君達は、織田信長の妹である、市(お市の方)、そしてその三人の娘、茶々、初、そして江(ごう)である。

 

市は、1547年に信長の妹として尾張に生まれた。戦国時代随一の美女であったと伝えられている。21歳の時に信長の意向により、浅井長政(近江)に嫁ぎ、茶々、初、江、の三人の娘を生んだ。(息子も生まれたが、戦により殺害されている。) その後信長と、浅井・朝倉が戦を起こしたため(1570年)、市は夫と兄との間で板挟みとなる。結局浅井は戦死、市は三人の娘を連れて信長の下に帰ることとなった。その後、信長は1582年本能寺の変で倒れ、市は今度は柴田勝家に嫁ぐこととなった。しかしその1年後秀吉は柴田勝家を討ち、市は勝家と共に生涯を閉じることとなる。

 

三人の娘は、秀吉の庇護のもとに養育され、長女の茶々は秀吉の側室に入る。茶々は自分の母を討った秀吉の側室となり、その後秀吉の嫡男鶴松を生むこととなる。鶴松の病没後は淀君と呼ばれ、さらに秀吉の後継ぎとなる秀頼を生んだ。天下統一を果たした秀吉の側室として、また後継ぎの秀頼の母として、大阪城において栄耀栄華を極めたことは疑いもないが、1598年秀吉没後は運命が急変することとなる。1600年関ヶ原の戦いを経て、1615年大坂夏の陣において秀頼と共に自害することとなった。初は、若狭小浜藩主、京極高次の正室となる。京極家は浅井長政の主筋となる家柄で、茶々や秀吉の後ろ盾もあって高次は順調に出世をした。

 

三女の江は、1573年に生まれ、小督という名であった。初めは秀吉の意向を受け尾張の佐治家に嫁いだが、その後秀吉の姉の子供である、秀勝に嫁いだ。秀勝の死後さらに秀吉の命を受け、徳川家との婚姻政策のため、秀忠に嫁いだ。江戸に嫁いだことから「江に与える」(お江与)「江」(ごう)と呼ばれるに至った。江の夫秀忠は、その後第二代徳川将軍となり、大坂夏の陣に際しては徳川家の将軍として、江の姉の茶々(淀君)のいる大阪城を攻撃することとなった。江からすれば、夫が江の姉親子を攻撃しているわけであり、次女の初共々心を痛めた。その後江は、三代将軍となる家光を生み、また五女和子は後水尾天皇中宮となり、天皇家にも血縁を持つこととなった。

 

母の市、そしてその三姉妹は戦国の世の中にあってこのような空前絶後の時を刻んだ。図らずも身内同士、姉妹同士の望まない争いの中で、姫君達は歴史の中でそれぞれの壮絶な人生を送ったのである。

日本の権力者の中で、実質No.1になった女性が何人かいる。
私がそう認めるのは、卑弥呼、北条政子、そして春日局だ。卑弥呼は倭国の国王として君臨した。春日局は徳川家光の乳母であるが、実質的な総理大臣として政治を掌握した。北条政子は、源頼朝の正妻であるが、頼朝にもある意味においては畏れられ、頼朝亡き後も政治に君臨し、鎌倉時代の大宗を占める北条氏政権の基盤を作った人物だ。

 

鎌倉幕府は、1192年源頼朝によって開かれた。しかし源氏はわずか3代、27年間で途絶え、その後115年間にわたり鎌倉時代を担ったのは北条氏であった。
北条政子は1156年頃初代執権となる北条時政の娘として生まれ、1177年頃、伊豆で流人であった源頼朝と結婚し、2代将軍頼家(1182年)、そして3代将軍実朝(1192年)を生んだ。源氏の初代将軍頼朝は夫、2代3代将軍は二人とも実子ということになる。
政子と頼朝の出会いはかなり現代的で、当時の武家社会では珍しく相思相愛、しかも政子はかなり嫉妬深く、頼朝も随分と気を遣い、また恐れてもいたようだ。政子が頼家妊娠中に亀の前という女性を寵愛したところ、その女性が住んでいた伏見広綱の屋敷を打ち壊し、広綱を遠江へ流罪にさせている。
また、政子は長女の大姫を溺愛し、その夫である木曽義仲の息子義高の殺害を決めた時、それを頼朝の命により実行した藤内光澄を晒し首にすることを政子の主張を入れる形で行っている。かわいい大姫の落胆を和らげるためだが、理にかなわない狂気の主張だ。

 

政子の周りの人々は、早死にが多い。長女大姫は20歳にして元気を取り戻すことなく亡くなった。夫頼朝は1199年落馬がもとで急死した。長男頼家は乳母の夫の比企氏を重用したが、それを脅威に感じた政子は使者を父の時政に送り比企能員(よしかず)を謀殺、政子の命で比企氏を滅ぼしてしまった。頼家も政子の命で将軍職を追われ出家。のちに暗殺されている。
次に、父時政も政権を独占しようとしたことが政子の意向に反することとなり、政子は兄義時と結び、時政を出家させ伊豆へ追放した。次男実朝は甥の公卿に暗殺され源氏は3代で滅びることになる。政子にとっては、父も追放、将軍となった二人の息子も殺され、長女も若死に、ということになる。
さらに子供のいない実朝の跡取りには、後鳥羽上皇の皇子を将軍にと画策し、その間自分自身も従2位に叙されている。その後、皇権の回復を望む後鳥羽上皇との対立は深まり、承久の変においては政子の裁断で幕府軍の出撃が決まり、その結果として後鳥羽上皇は隠岐の島へ流された。

 

このように鎌倉幕府が開かれ、源氏がわずか3代で滅びるその過程においては、常に北条政子が中心におり重要な決断を行っている。そうして源氏によって開かれた鎌倉幕府は、政子の出身である北条氏の手に完全に委ねられることとなった。

 

その過程において、父親である時政は政子により出家させられ、夫や子供は多くが変死や暗殺にかけられている。すべてが政子の手にかかったものとは言えないであろう。しかし政子の意向を無視して重要人物が次々と排除させられていくこともできないのではないだろうか。
実権を握った「尼将軍」の力は、鎌倉幕府の成立という歴史の中で、大変な猛威を振るったのだと思う。その結果として、実の親も夫も、将軍となった二人の息子も失うという壮絶な人生を送ることとなるが、自身の出身家系ある北条氏はその後100年以上も政権を担うこととなったわけである。

日本という国はいつ頃どのように成立したのだろうか。これは私たち日本人にとってとても興味深いことだ。実際問題として、大和朝廷がいつ頃どこに成立したのか、はっきりはしていない。北九州なのか近畿なのかさえも、いまだに議論は分かれている。
女王卑弥呼が統治していた邪馬台国が、3世紀にあったということは事実であろうが、そこからの約300年間の動静は渾然としているように思われる。
その間特に目を引くのは、中国や朝鮮半島との豊かな交流だ。魏国や高句麗、百済、新羅等と様々な交流が行われ、朝鮮半島には任那日本府といった朝鮮半島における基盤も持つに至った。任那は512年伽耶の国として百済に併合され、その後562年新羅に滅ぼされている。

戦いに敗れた伽耶の人々は、いわゆるボートピープルとして追い出されることになる。出ていく先は島根、出雲地方、北陸地方、九州、そして瀬戸内海を渡ってその島々や中国地方へと流れ込んでくる。今でも岡山県の鬼の城(きのじょう)、瀬戸内海のいくつかの島々にも要塞の跡がみられ、また讃岐地方にもその痕跡や伝承が残っている。
朝鮮半島から来た人たちは、言葉が通じない、鉄文化を持ち、それゆえ鉄製の強力な武器を持っている、文化も異なり、村人たちの財産や食料を海賊同様に奪い去り、それゆえ鬼として恐れられていた。そうした海賊行為に苦しむ人々を救い、鬼が島を退治した大和朝廷からの遠征軍が、「桃太郎伝説」として今でも子供たちのおとぎ話として広く受け継がれているという説がある。

吉備津彦命(きびつひこのみこと)だ。吉備津彦命は7代目の天皇である孝霊天皇の子で、崇神天皇の命を受けて鬼退治に向かったとされる。途中、吉備地方の豪族たちの領地を保証してあげることで、(吉備団子を渡すこと)彼らと連合軍を組み、(申、酉、戌)鬼門にいる(丑、寅)を打ち破った。
私は方位学の事はわからないが、東北の鬼門(丑寅)に対し、西方の申酉戌の角度は最強の方角なのだということを聞いたことがある。そのようなことも伝説の中には含まれていたのかもしれない。

吉備津彦命は、島根、出雲地方にも平定のため赴いており、朝鮮半島からもたらされた鉄文化を出雲地方においても、また岡山地方においても制圧し、大和朝廷の成立に大きく貢献したのではないかと考えている。
子供たちが今になっても愛してやまない、強くたくましい「桃太郎」は、私たちの国の成立に基づく伝承が元になっているからかもしれないと思うのである。

「日本」という国は、いつ頃どのようにして成立したのだろうか。古くは邪馬台国があり、好太王の碑(391年)は日本の朝鮮半島への出兵を物語る。しかし、一つの国家としての制度が整い、諸外国にも認められる体制を築き上げたのはどの時点だったのだろうか。
聖徳太子は17条憲法(604年)や、官位十二階の制度(603年)を作り、遣隋使(607年)を送って国際外交を展開しようとした。しかし、道半ばにして蘇我氏との抗争に巻き込まれ、国家としての制度が定まったというところまではいっていないように思える。
そうして見ていくと、大化の改新後(645年)半世紀を経て、701年に大宝律令が制定されていることが注目される。さらにその後718年には養老律令も制定されるが、これは中臣鎌足の息子、藤原不比等により制定されたとされている。
さらに708年には、和同開珎の鋳造が始まり、国の財政の基盤をなす貨幣の流通も始まった。さらに、710年には藤原京から平城京に都が移され、712年には古事記、720年には日本書紀の編纂も行われた。このような国史の編纂は独立国としての正当性を公に対外的に主張する上で、大変意味深いことではなかったかと思う。
さらに723年には三世一身の法、743年には墾田永世私財法の制定も行われ、経済発展の基礎も大きく整えられた。
また、聖武天皇の主導により各地には、国分寺、国分尼寺が建てられ、752年には東大寺大仏開眼供養が盛大に営まれた。この開眼供養はインドの高僧による導師の下に中国、朝鮮、東南アジアの各地からも含め、1万数千人もの人々が招かれた国際的な大イベントであった。
東大寺の大仏の規模や、その鋳造技術は世界的にも大変優れたものであり、大いに誇れるものであった。日本という国家の威容を国際的に強く印象付けるものであったと思われる。
このように見てくると、日本国の制度は8世紀前半に様々な分野で大きく整ってきた感じがする。

ところで、この一連の流れの中で、大変注目すべき人物の存在に気づく。藤原不比等だ。
不比等は、この国造りの過程において、全体のマスタープランを取り仕切っていたと考えられる。その力の源泉として彼はまず、自分の娘、宮子を文武天皇に嫁がせている。聖武天皇はその子供であり、不比等からすれば大切な孫だ。さらに聖武天皇にも自分自身の娘である光明子(宮子の異母妹)が嫁いでいる。光明子立后の際には皇族の実力者であった長屋王が反対していたが、藤原四兄弟の陰謀により自害に追い込まれ、光明子は結局聖武天皇の皇后に立后された。さらにその娘である阿部内親王は、聖武天皇の退位後孝謙天皇となっている。聖武天皇の母と皇后は不比等の娘、聖武天皇は孫、孝謙天皇は曾孫ということであり、不比等(等しく比べるものはいない)という名は文字通り彼自身が絶対権力者であったことを如実に物語っている。
その後平安時代において、藤原氏はさらに勢力を強めていくわけであるが、国の成り立ちはこの8世紀の前半に不比等を中心として広範に整えられていったのではないかと考えている。

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