日本の権力者の中で、実質No.1になった女性が何人かいる。
私がそう認めるのは、卑弥呼、北条政子、そして春日局だ。卑弥呼は倭国の国王として君臨した。春日局は徳川家光の乳母であるが、実質的な総理大臣として政治を掌握した。北条政子は、源頼朝の正妻であるが、頼朝にもある意味においては畏れられ、頼朝亡き後も政治に君臨し、鎌倉時代の大宗を占める北条氏政権の基盤を作った人物だ。

 

鎌倉幕府は、1192年源頼朝によって開かれた。しかし源氏はわずか3代、27年間で途絶え、その後115年間にわたり鎌倉時代を担ったのは北条氏であった。
北条政子は1156年頃初代執権となる北条時政の娘として生まれ、1177年頃、伊豆で流人であった源頼朝と結婚し、2代将軍頼家(1182年)、そして3代将軍実朝(1192年)を生んだ。源氏の初代将軍頼朝は夫、2代3代将軍は二人とも実子ということになる。
政子と頼朝の出会いはかなり現代的で、当時の武家社会では珍しく相思相愛、しかも政子はかなり嫉妬深く、頼朝も随分と気を遣い、また恐れてもいたようだ。政子が頼家妊娠中に亀の前という女性を寵愛したところ、その女性が住んでいた伏見広綱の屋敷を打ち壊し、広綱を遠江へ流罪にさせている。
また、政子は長女の大姫を溺愛し、その夫である木曽義仲の息子義高の殺害を決めた時、それを頼朝の命により実行した藤内光澄を晒し首にすることを政子の主張を入れる形で行っている。かわいい大姫の落胆を和らげるためだが、理にかなわない狂気の主張だ。

 

政子の周りの人々は、早死にが多い。長女大姫は20歳にして元気を取り戻すことなく亡くなった。夫頼朝は1199年落馬がもとで急死した。長男頼家は乳母の夫の比企氏を重用したが、それを脅威に感じた政子は使者を父の時政に送り比企能員(よしかず)を謀殺、政子の命で比企氏を滅ぼしてしまった。頼家も政子の命で将軍職を追われ出家。のちに暗殺されている。
次に、父時政も政権を独占しようとしたことが政子の意向に反することとなり、政子は兄義時と結び、時政を出家させ伊豆へ追放した。次男実朝は甥の公卿に暗殺され源氏は3代で滅びることになる。政子にとっては、父も追放、将軍となった二人の息子も殺され、長女も若死に、ということになる。
さらに子供のいない実朝の跡取りには、後鳥羽上皇の皇子を将軍にと画策し、その間自分自身も従2位に叙されている。その後、皇権の回復を望む後鳥羽上皇との対立は深まり、承久の変においては政子の裁断で幕府軍の出撃が決まり、その結果として後鳥羽上皇は隠岐の島へ流された。

 

このように鎌倉幕府が開かれ、源氏がわずか3代で滅びるその過程においては、常に北条政子が中心におり重要な決断を行っている。そうして源氏によって開かれた鎌倉幕府は、政子の出身である北条氏の手に完全に委ねられることとなった。

 

その過程において、父親である時政は政子により出家させられ、夫や子供は多くが変死や暗殺にかけられている。すべてが政子の手にかかったものとは言えないであろう。しかし政子の意向を無視して重要人物が次々と排除させられていくこともできないのではないだろうか。
実権を握った「尼将軍」の力は、鎌倉幕府の成立という歴史の中で、大変な猛威を振るったのだと思う。その結果として、実の親も夫も、将軍となった二人の息子も失うという壮絶な人生を送ることとなるが、自身の出身家系ある北条氏はその後100年以上も政権を担うこととなったわけである。

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