「日本」という国は、いつ頃どのようにして成立したのだろうか。古くは邪馬台国があり、好太王の碑(391年)は日本の朝鮮半島への出兵を物語る。しかし、一つの国家としての制度が整い、諸外国にも認められる体制を築き上げたのはどの時点だったのだろうか。
聖徳太子は17条憲法(604年)や、官位十二階の制度(603年)を作り、遣隋使(607年)を送って国際外交を展開しようとした。しかし、道半ばにして蘇我氏との抗争に巻き込まれ、国家としての制度が定まったというところまではいっていないように思える。
そうして見ていくと、大化の改新後(645年)半世紀を経て、701年に大宝律令が制定されていることが注目される。さらにその後718年には養老律令も制定されるが、これは中臣鎌足の息子、藤原不比等により制定されたとされている。
さらに708年には、和同開珎の鋳造が始まり、国の財政の基盤をなす貨幣の流通も始まった。さらに、710年には藤原京から平城京に都が移され、712年には古事記、720年には日本書紀の編纂も行われた。このような国史の編纂は独立国としての正当性を公に対外的に主張する上で、大変意味深いことではなかったかと思う。
さらに723年には三世一身の法、743年には墾田永世私財法の制定も行われ、経済発展の基礎も大きく整えられた。
また、聖武天皇の主導により各地には、国分寺、国分尼寺が建てられ、752年には東大寺大仏開眼供養が盛大に営まれた。この開眼供養はインドの高僧による導師の下に中国、朝鮮、東南アジアの各地からも含め、1万数千人もの人々が招かれた国際的な大イベントであった。
東大寺の大仏の規模や、その鋳造技術は世界的にも大変優れたものであり、大いに誇れるものであった。日本という国家の威容を国際的に強く印象付けるものであったと思われる。
このように見てくると、日本国の制度は8世紀前半に様々な分野で大きく整ってきた感じがする。

ところで、この一連の流れの中で、大変注目すべき人物の存在に気づく。藤原不比等だ。
不比等は、この国造りの過程において、全体のマスタープランを取り仕切っていたと考えられる。その力の源泉として彼はまず、自分の娘、宮子を文武天皇に嫁がせている。聖武天皇はその子供であり、不比等からすれば大切な孫だ。さらに聖武天皇にも自分自身の娘である光明子(宮子の異母妹)が嫁いでいる。光明子立后の際には皇族の実力者であった長屋王が反対していたが、藤原四兄弟の陰謀により自害に追い込まれ、光明子は結局聖武天皇の皇后に立后された。さらにその娘である阿部内親王は、聖武天皇の退位後孝謙天皇となっている。聖武天皇の母と皇后は不比等の娘、聖武天皇は孫、孝謙天皇は曾孫ということであり、不比等(等しく比べるものはいない)という名は文字通り彼自身が絶対権力者であったことを如実に物語っている。
その後平安時代において、藤原氏はさらに勢力を強めていくわけであるが、国の成り立ちはこの8世紀の前半に不比等を中心として広範に整えられていったのではないかと考えている。

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