「子曰、民可使由之、不可使知之」
論語にある有名な教えだ。
この教えでは、「使由之」由らしむはよく、「使知之」知らしむはよくないと書かれている。
由は、由来、由縁、理由、自由、これまでの流れやいきさつ、理屈のよって立つところ、自分自身がよって立つ立場などが「由」の意味合いとして連想される。
これに対し、「知」は知らせ、通知、下知、通達、思い知らすなどが連想される。

 

 

私が論語のこの言葉を初めて見たとき、孔子は施政をなすとき、民になぜそのような施政を行うのか、民がその由来や由縁、理由や民の一人一人がその自由な立場からして、しみじみと納得できる「由」(よし)を感じさせなくてはならないと言っているのだと思った。
後段では、町辻に高札(お知らせ)を立て、民意も問わず、一方的に下知、通達するようなやり方は『不可』であると書いているように感じた。理由も納得も、判断材料となる情報もなしに、一方的にお知らせや通達、結論だけが押し付けられ、それに反抗するものには目に余る「思い知らす」ようなことがなされるようでは、政治は受け入れられず機能しない。

 

 

「由らしむべし、知らしむべからず」には、様々な解釈がなされており、中には真逆に、
「民には施政に従わせればよいのであって、その道理を人々にわからせる必要はない」といったものまである。しかし、論語に書かれている「由」と「知」の二文字の意味をよく見れば、孔子が世に対し、愚民政策を論じているとはとても考えられないのである。

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